まちこの部屋

聖なるあきらめ

何故いつまでもブログを続けるのか?

先日「私は何故ブログを続けているのか?」と改めて思いました。

そもそも始めたきっかけは、次男の自死があったからです。

とにかく相談する人がいませんでした。

そんな時に自死遺族の方のブログを読む事で「あ、分かってくれる人がいそうな気がする」「泣き言を書いてもいいのかもしれない」が、始まりだったと思います。

今では、好きな映画の話や本の話なども織り混ぜて書けるようになりました。


自死遺族の集いなどに行くと「息子の死をきっかけにカウンセラーの資格取ったんですよ」とか「自死遺族としてグリーフの活動をするようになった」という立派な方をお見かけします。

すごいな、偉いなって思います。

ただ私は生活がいっぱいいっぱいで、そういう活動をする余裕がないです。

でも、お身内を亡くされて「どうしよう、どうしたらいいの?」とPCやスマホで「自死遺族」「自殺された」という文字を目を皿のようにして検索する気持ちは、誰よりも分かる気がします。

自分がそうだったから。

もちろん、自死者がいなくなる世の中であってほしい。

それが何より一番。何より大切。

だけど、苦しい人が私のブログに目を止めてくれたら、少しは寄り添えるかなって思ってブログを続けています。

何かまとまらない文章ですね。

そんなこんなで、まだまだつたない話を綴ろうと思います。

よろしくです。

思い出を語れないのが悲しいんだ

先日、LINEで長男から「昔、USJに行った時にガイドツアー頼んだよね?あれ、高かった?」と聞かれました。

私と長男と次男の3人で、USJに行った事があります。

何故、夫が行かなかったかというと「くだらないから行きたくない。俺が行かなければ、一人分浮くし、その分使えばいいし、ウィンウィンじゃん」と言ったからでした。

当時も頭に来ましたが、今書いていても腹が立ちます。

まあ、いいや。

と言う事で浮いたお金でガイドツアーを頼んだのです。確か、優先的に並ばずに3つ位乗らせてくれた気がします。

私はUSJより、ジンベイザメが見られた海遊館という水族館の方が記憶に残っていて、長男とひとしきり思い出話をしました。

その後、ふと思ったのですが誰かを亡くすという事は「一緒に思い出を話す事ができなくなるのが悲しいんだな」と思いました。

いつも思い出話をしたいわけではないです。が、ふとした瞬間や機会に話せなくなるという寂しさを味わうのが人を亡くすという事だと改めて思いました。

人は思い出があるから生きていけると思います。

次男との思い出は、もう増える事がない、それがつらいです。

もしかして生きていたら次男と不仲になっていたかもしれない、いい関係ではなかったかもしれない、それでも生きていてほしかったなと命日が近づく度に思います。

ロボットドリームズとパストライブス

いつからか大晦日は「映画を観にいく」と決めています。

今年はやっと目が回復したので、もうすぐ上映終了する「ロボットドリームズ」を滑り込みで観に行きました。

もう家だったら声出して泣いちゃっていたかもしれない。

今年間違いなく私のベスト1!

あらすじは、NYで一人孤独に生きるDOG(犬)が、ある日組み立てるロボットを購入します。

ロボットは犬と仲良くなり、二人で楽しい時を過ごします。幸せな日々が続きます。

しかし、ある日海にいったらロボットが塩で錆びて動かなくなります。

犬は必死に救出を試みますが、悲しくもビーチは閉鎖されロボットは置き去りに。

この後、ロボットや犬はどうなるのか?

彼らはどうするのか?


多くの批評家の方々が、このロボットドリームズとパストライブスについて語っていました。

私は批評家の方々の話を鑑賞後に見たんですが、実際に何と!私もラストで頭によぎったのはパストライブスという映画でした。

人と人が出会って別れるのは「縁」です。

いろんな別れかたがあります。

死別や離別、何となく疎遠になるなど。

でも人は、そんな過去を繰り返し、地層のように重ねて「今」を生きていきます。

色んな体験がその人を形作っていきます。

悲しい過去も楽しかった過去も、みんな大切な思い出であり、生きているというのは「縁(イニョン)」なのです。

思い出しただけで泣けてきちゃう。

ぜひ、この2作ご覧あれです。