まちこの部屋

聖なるあきらめ

夏目漱石

高校の国語の授業で、当時の現国の先生が「漱石は、ご近所の人間と親しくなると、引っ越しを繰り返していたそうです。漱石曰く『人間は無欲なものではない。親しくなって物のやり取りをしたりすると、あげたのにお返しがない。こうしてやったのに、何もしてくれない。ということになり、人と親しくするのが誠に苦痛だ』と言っていたと言われています」と話してくれました。

当時「でも、私は恩着せがましい事はするまい。だから、お返しがなくても人に与えたい」と思いました。


先日、三島に住む弟の近くで突風があり

心配になって、大丈夫か?とメールしました。

その時に、長男の結婚の話も少し書きました。しかし、数日たってから弟から

「心配してくれてありがとう。何ともなかったです。○○くんの(長男の名前)ご結婚おめでとう。また、話を聞かせて下さい」とありました。


何だか寂しく感じました。

両親からは「本人から挨拶がないからお祝いやらない」と言われ、長男が残暑見舞いを出して報告したら、一応は返事を出したらしいですが、「お祝いはやりません」的な事が書いてあったらしいです。

そして、弟達にはよい姉ではなかったけど、お金の無心をしたり迷惑をかけた記憶はありません。

働き始めた時は、学生だった弟達にお小遣いをあげたり、成人のお祝いや甥っ子の節目節目に、手紙を書きそれなりに数々祝ってあげたのです。


なのに、私の身内は次男が自死してもお花一つ送ってくれません。

むしろ、知人、友人が月命日にお花をくれたり、お盆の時にお菓子を「仏前に」と下さったりします。


夏目漱石の言葉のように、知らず知らずのうち「いろんな期待」を身内に求めていた自分に気がつきました。

お返しなんてどうでもよかったはずなのにね。

やはり、身内だと「○○してやったのに」が強く出るのかな?

誰からもお祝いをもらえない長男が、ちょっとかわいそうに感じた私でした。

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